Fukuoka
 
 

名称:福岡城 別名:舞鶴城(まいづるじょう)
場所:福岡市中央区城内(旧筑前国那珂郡と早良郡にまたがる)
築城:黒田長政が慶長六年(1601)から七年かけて築城。同十二年(1607)完成。
破却:明治六年(1873)存城と決定され、陸軍省管理下に置かれた。
    破却されてはいないが相当破壊されている。
分類:平山城現存石垣、堀、潮見櫓、御祈念櫓、南丸多聞櫓、(本丸表門)、
((月見櫓、花見櫓))
 
 
 
 
 
 
 
APR 2007 
 
●福岡の歴史文化
福岡(舞鶴)城には五層の天守閣が・・・
福岡城は城址としては地味かもしれない。
天守閣はない、大きな城門もない、櫓もポツンポツンしかない。
しかし、実際は見どころ満載なのだ!(ズバリ地元びいき)
わが町の城に天守閣がなかったというよりは、『立派な天守閣があった』とした方が話としては楽しい。しかし、それと史実は別である。長い間、福岡城には天守閣は建てられなかったと考えられてきた。『福岡県史』通史編「福岡藩」(1998)にもそう書かれている。黒田如水は合理的な考えをもち、以後の時代には天守は不要であるとして建てなかったというのである。ところが最近になって熊本細川藩の史料に、福岡城に天守があったかのように読みうる記事が見つかった。黒田藩側の史料にも天守のことばがある。それで俄然、天守存在論が浮上してきたのである。
しかし、それを文字通りに受け取ることはできない。結論を先にいえば、福岡城大天守は建てられなかったが、天守台の近く、小天守台、中天守台と呼ばれた場所に二層(*三層に訂正したい)ほどの櫓が建てられた。この櫓は幕府向けには「御天守台廻りの御矢倉(櫓)」といわれていたが、福岡藩内では天守と呼んだと考えられる。
*寛永十二年(1635)に福岡地方を大きな台風が襲った。
箱崎松原の大木が2000本も倒れた。福岡城の櫓も大破しただろう。しばらくは持ち堪えていたが、寛永十五年(1638)に取り壊された。この経過についての古文書は檜垣元吉『近世北部九州諸藩史の研究』にみえる。ほか、樋井川の土手が切れた状態と、その段階ですでに取り壊された別の「先年の矢倉跡」四棟を示した絵図も九州文化史研究所にある。黒田家の史料にも細川家の史料にも、確かに「天守」という文字は見えるが、実はこの代用「天守」のことをいうのである。大天守台そのものには明和二年(1765)まで蔵が建てられていた(九州大学檜垣文庫古文書)。その後、この中・小天守は再建されなかったが、石垣だけは「小天守台」石垣のように呼ばれて修理され続けた。いつしか天守台北西の櫓が「天守櫓」といわれるようになり、これが天守代用とされて幕末を迎えた。
さて、以上の考えを立証してくれるものの第一は、正保三年(1646)福博惣図に描かれた福岡城の詳細な図面である。この絵図は縦三メートル、横五メートルと大きく、開くことがたいへんだから、ふつうは見ることはできない。しかし幸いにも今は「黒田家」展に展示されている。「天守台」と表記されたそのすぐ東隣に「矢蔵跡」と注記されている。小・中天守台の位置である。これは寛永十五年の取り壊し後の姿を示している。もちろん「天守跡」とは書かれていない。大天守は初めからなかったから「天守台」としか書かれなかった。
さて、大天守があったと主張する人も、正保段階に天守がなかったことは認めている。するとせっかく建てた天守を三十年ほどで取り壊したことになる。いかに封建時代とはいっても、年貢を絞りとられる領民としては耐えられない。領主の権威も失墜である。本当にそんな馬鹿なことをしたのだろうか。そこにでてくるのが幕府の威光を恐れて取り壊した、という説明である。
司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、伊賀・上野城は天守を建設中、ほとんど完成していたが、徳川の意向を推し量った藤堂高虎が自ら取り壊したと書いている。あまりに不自然なので調べてみたら、慶長十七年(1612)九月に台風がきて、おおかた完成していた天守が倒壊し、百八十人が死亡したことがわかった。これでは工事の続行はできなかった。天守取り壊しの真相である。
天守取り壊しがほんとうに幕府に迎合するものだったのならば、諸藩も率先して壊しただろう。毛利氏の萩城、浅野氏の広島城、加藤氏の熊本城--みな豊臣恩顧・外様であって、幕府に迎合しなければ延命できない大名ばかり。しかしいずれも明治まで天守は残っていた。加藤の場合は実際に取りつぶされてもいる。それでも彼らは天守を取り壊さなかった。天守は建てるのも大変だが、壊すことも簡単にはできない代物だった。
 
【天守櫓跡】
天守台の西の枡形石垣上にあった櫓。
天守台の周りは迷路のように入り組んでいる。
御武具櫓御門から二の丸へ下りて振り返ってみると、これが天守台だったかな?と勘違いしてしまう。これは天守台ではなく、その西側枡形、天守櫓の石垣だ。
左に一段低い石垣は長局のあったところ。
右の坂道を上れば御武具櫓御門だ。
 
 
【大天守台】
お城のシンボル。三つの天守台の西端に位置する。
大天守台の内側。石垣の切れ目は埋門への出入り口。

(左)大天守台には礎石が残る
(右)大天守台外観
福岡藩は天守を建てる意志がないのに、なぜあのような巨大な天守台だけを作ったのか。その疑問には次のように考えられる。途中で予算がなくなって、天守を建てられなくなった。もう少し丁寧にいえば、残った予算と天守の価値とのバランスを考慮したのである。しかし金がないでは格好が付かない。そこで持ち出された理屈が「将軍家への遠慮」だった。そういえば天守積極建築派も含めてみな納得した。皮肉なことに後世の人までもが、この考えにしたがった。
中天守台石垣の方が小天守台より一段高い。仮にともに二層でも外から見れば重なり合って三層に見えた。残念ながら姫路城のような五層の天守は福岡城には建てられなかった。しかし「天守」代用として十分に機能的な、黒田如水の福岡城らしい建物があったのである。
 
■福岡城概要
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの功績により、黒田長政が豊前・中津から筑前へ、それまでの筑前太守・小早川秀秋は備前へと移った。
黒田長政は小早川の居城・名島城へ入ったが、城域が狭かったことから居城を移すことになる。
土地選定にはいろいろ案があったようだが、那珂郡警固村福崎のちょっと高くなっているところに新たに城を築いた。これが福岡(舞鶴)城である。
 黒田家の出身地、備前國邑久郡(おくぐん)福岡にちなみ、その地を「福崎」から「福岡」へ改称した。近代に入り、この場所がいにしえの昔「鴻濾館(こうろかん)」があったところとされたが、築城当時それを知っていたかとなると、おそらくは知らなかったのではないかと考えられる。知っていたら記録に残ってもよさそうだし、江戸時代を通じて鴻臚館は博多のあたりと考えられていたそうだ。
おそらくは当時なにもないところだったのだろう・・・。
それでも築城の際、土器やら何やら出てきたと思われるが、そういうのは何処でだって出てくるものだったと考えられる。
大天守台からの眺望
ここに立ってみると現在の建物で海まで見えないが、
当時は海に向かった城構えで海を一望できたと思われる。
福岡城は、本丸、二の丸、三の丸を内堀で囲み、海に向かって北に大手門を構えた。内堀には大手門を含め計三つの橋を架けている。西には湖(湿地帯だったか?)を天然の堀とし「大堀」と呼んだ。今の大濠公園であるが、「大きな堀」の面積は現在よりかなり広かった。
南側の高台は、本丸よりも高かったので削り、城地との間を掘り切ったといわれている。今の国体道路だ。また、東には那珂川に至るまで堀(中堀、肥前堀)を築き防備を固めたが、明治〜大正にかけ埋められてしまった。那珂川を外堀と見なしていたと考えられる。那珂川の向こうは商人の町・博多だ。
城下町は、城の北側に東西に長く作られた。福岡の町である。
『本丸に天守台は築かれたが、天守閣は最初からなかった。・・・』というのが定説となっていたが、最近は『実はあったのだ』という新説もある。櫓は四十七もあったという。地元の人にとっても意外かもしれないが、随分と規模の大きな城郭だったのだ。
 筑前五十二万石を領する黒田藩は、関ヶ原直後から明治維新まで約270年、ここ福岡城に続いた。明治以降、歩兵第二十四聯隊が城内に置かれた。終戦後は、三の丸部分に平和台球場、陸上競技場などが築かれ、舞鶴公園・大濠公園として市民の憩い(花見?花火?)の場だ。昭和六十二年、平和台球場外野席から鴻臚館跡が発掘され、展示館が建てられている。
鴻臚館 (こうろかん)
平安時代に平安京[へいあんきょう]と博多にあった、外国からの使節を接待する施設のことです。博多にあった鴻臚館は、昔、平和台球場があった場所にありました。難波にも同じような施設があったと言われています。

 
福岡の風景
1、福岡の交通事情
福岡市の総走行台キロは、542万台キロ(管内計は2,290万台キロ)と福岡県全体の14%(管内計は57%)を占めています。また、福岡市の人口当りの走行台キロは、4.2台キロ/人と全国平均の半分以下となり、1人当りの移動距離は短い状況にあります。しかし福岡市の平均交通量は158百台/日と全国平均の約3倍と高く、またピーク時旅行速度は19.0km/hと全国平均の約6割にとどまり、混雑は著しいものとなっています。
全国からみた福岡県の渋滞状況
全国各県比較(1kmあたりの渋滞による損失)
福岡県は全国ワースト 11位
九州における福岡市の渋滞状況
九州の市町村別比較(渋滞による損失時間)
福岡県は全国ワースト 1位
 
 
 
 
 
福岡都市圏(6市8町)の渋滞損失時間
渋滞損失時間5,785万人時間/年
 
渋滞損失時間5,356万人時間/年
 
 
福岡外環状道路がH20年で
暫定2車線供用した場合の推計値
 
 
福岡都市圏の道路計画は、都心部に向かう車両と、都心部を通過するだけの車両が混在して渋滞が慢性化しているので福岡市都心部を通過する車を排除することで、渋滞を緩和しようとしているのだが、都市高速いのランプ呉服町ランプから上がったところ、南から東西への分岐点のところですが、
非常に危険な状態です。5号線を早く作らないと、そのうち大きな事故が起こるでしょう。
みんな譲り合って運転しようね
福岡都市圏域の総合的かつ一体的な発展を図るため「福岡都市圏広域行政推進協議会」によって策定される広域行政計画行政計画の内容に基本的な方向性として、福岡市の2000年にわたる長い歴史と伝統の中で築かれてきた都市、この歴史と伝統に育まれ培われた“自治”と“進取”の精神、洗練された文化、そして豊かな自然環境を未来へと活かし、「ひと」にやさしく、また、「人と人との出会い」を通じて、新しい文化や産業を創出する「自治都市福岡」を市民とともに作り上げていくため、戦略ビジョン施策を重点的に推進する計画があります。

戦略ビジョン1
 市民と行政が誇りと責任を共有し、共働する、快適都市創造ビジョン
行動プラン1  市民・地域とともにつくる都市
 市民の自発的活動やコミュニティ活動の支援育成を図るとともに、市民・地域・行政が共働し、豊かな人間関係と個性あふれる暮らしやすい地域をともに創造していきます。
行動プラン2  子どもが夢を描ける都市
 子どもを安心して産み育てられる環境づくりを進めるとともに、家庭、学校、地域が相互に連携し、子どもを地域全体で育んでいく社会の実現をめざします。
 また、郷土福岡を誇りとし、21世紀に夢や目標を抱きながら、豊かな心とたくましく生きる力を持った子どもを育む教育環境づくりを進めます。
行動プラン3  安心して心豊かに暮らせる都市
 市民がともに支え合い、誰もが安心して暮めるとともに、市民が心の豊かさを実感できるよう、文化やスポーツの振興と生涯学習の支援を推進します。
行動プラン4  環境にやさしい都市
 増加し続けるごみの減量に対する取り組みや、地球温暖化問題など地球規模の環境問題への取り組みを進めるとともに、本市の恵まれた自然環境を次の世代へと引き継ぐための取り組みを進めます。
行動プラン5  生活基盤の充実
 市民生活に不可欠な水資源の確保をはじめ、すべての人が安心して利用できる交通基盤や市街地、住環境の整備、さらに、災害に強いまちづくりをめざした防災基盤の整備など、市民生活を支える基盤整備を着実に進めます。

戦略ビジョン2
九州・アジアとともに生きる21世紀の都市力創造ビジョン
行動プラン1  グローバルゲートウェイの形成
 アジア、世界と九州・福岡とを結び、人、もの、情報が行き交うグローバルゲートウェイの形成をめざし、世界と未来への架け橋として福岡市の将来を切り拓く2大プロジェクト、21世紀の未来型モデル都市アイランドシティの創造と、新福岡空港構想を推進します。
行動プラン2  知識創造都市
 大学をはじめとした様々な都市機能の集積など本市が持つ都市ポテンシャルを活かし、九州における産業の展開とも連携を図りながら、知識創造型産業の集積促進、九州大学を核とした学術研究開発拠点の形成などを推進します。
 知識創造都市を支える基盤として、IT(情報通信技術)を活かした都市づくりを推進します。
行動プラン3  国際集客文化都市
 本市の歴史の中で育まれてきた文化や伝統、そして、開放的でおおらかな市民気質を活かし、九州各地とも連携しながら、国際観光機能の強化や、国際コンベンションの積極的な誘致・開催を推進します。
 福岡の持つエンターテイメント性を、新しい都市活力として高めていきます。
行動プラン4  国際流通・連携都市
 九州の流通拠点として発展してきた歴史を踏まえ、グローバル化の進展の中で、国際流通機能の強化を図ります。
 これまで進めてきたアジア地域をはじめとした海外との様々な国際交流・協力や連携をより一層推進するとともに、福岡に住み、集う外国人に優しく、暮らしやすいまちづくりを進めます。
 九州の一体的な発展をめざし、九州各地との交流・連携の強化に向けた取り組みを進めます。
行動プラン5  経済基盤の強化
 本市の都市活力を支える経済基盤を構築するため、地場中小企業の振興や創業支援、企業立地の促進に取り組むとともに、暮らしを豊かにする農林水産業を振興し、活力ある農山漁村を創造します。
 
2 筑紫地域
《現況と動向》
 筑紫地域(筑紫野市、春日市、大野城市、太宰府市、那珂川町の4市1町で構成)は、都市圏の南部に位置し、九州の動脈である国道3号をはじめ国道385号、JR 鹿児島本線、JR 博多南線、西鉄天神大牟田線、それに圏域内外を結ぶ数多くの県道が走っています。さらに、九州縦貫自動車道の太宰府インターチェンジと筑紫野インターチェンジがあり、太宰府インターチェンジから福岡市内を結ぶ福岡都市高速道路に直接つながるなど、交通網の発達が著しい地域です。
 また、一方では、脊振山系、宝満山系などの自然環境や大野城跡・水城跡・大宰府政庁跡・奴国の遺跡など、歴史的・文化資源に恵まれ、また、博多の奥座敷と言われる二日市温泉を有し、居住環境の整った快適生活都市を形成しています。
 このようなことから、筑紫地域ではいまだに人口増加が続いており、その分、水需要も年々増加していますが、水事情は他の地域と同様に大変厳しいことから、都市圏等での適切な対応が強く求められているところです。
 また、西鉄天神大牟田線の連続立体交差事業や基幹道路の整備とあわせたまちづくりの推進等、交通基盤と都市基盤の整備、あるいはスポーツ・レクリエーション、イベント等の推進や介護保険の認定審査会の共同設置をはじめとする高齢化対策等、各種福祉施策などを地域が連携し、一体となって進めることが、今後の課題です。さらには、九州国立博物館(仮称)やアジア学術・文化交流センター(仮称)の建設整備を意識した文化と生涯学習の振興、あるいは地域住民の草の根による国際交流を促進するなど、地域や住民が主体となったまちづくりを推進し、将来にわたって潤いのある豊かな生活を追求しながら、質の向上に重点を置いた各種事業や施策を展開していくことが必要となってきています。

《基本的な方向性》
 福岡都市圏において、最大の住宅地域を形成し、良好な住宅都市として発展を続ける筑紫地域は、豊かな自然と歴史・文化を生かした住民参加による個性的なまちづくりの推進や交通基盤の整備、少子高齢社会に対応した各種福祉施策の展開、スポーツ・レクリエーションの振興、文化や生涯学習の充実強化、地域住民の草の根交流による国際交流など、多くの地域住民がこの地域に住んでよかったと感じる都市・地域づくりをめざします。

(1) 生活環境
 「健康」で「快適」、「安全」で「便利」な、生活を保障するため、上下水道の整備をはじめとする基盤整備及び廃棄物処理の適正化、増加する犯罪の未然予防など、日常生活の基盤である生活環境の整備をさらに推進します。
 また、住民生活の環境衛生を保全するため、ごみ、し尿の合理的な収集・処理に取り組むとともに、住民の意識啓発等を行いながら、より効果的な対策を進めます。
 特に、水資源については、需要の増大及び水源環境の悪化等により水不足が生じていることから、施設の拡充・改良や新たな広域的水源の確保・開発(海水淡水化等)などを積極的に進めるとともに、節水型水利用を推進するなど安定給水の確保に努めます。
(2) 交通ネットワーク
 西鉄天神大牟田線の連続立体交差事業を推進し、都市機能の充実を図るとともに、九州縦貫自動車道太宰府インターチェンジに続き、筑紫野インターチェンジが開設したことから、その流通機能をより拡充しながら、広域交通ネットワークの形成を図ります。

「もっと賢くどうすれば良くなるのか考えよう!日本の将来に今・・」
悪くなる前になぜ日本人は考えないのだろうか?

なぜ外資系企業に国益を持っていかせるのだろうか?
造ることより創り方(造るだけだった−効率の良い維持管理運営システム)=将来に続く利益)
もっと将来を考えた仕事に価値を付け、将来の益を生み出すビジネススタイル(運営システム)
に投資することを日本の金融機関はやるべきではないだろうか・・
外資系企業による日本買収にしろ、日本人の一時的な利益を追求するやり方が長期的な

大きな国益を奪われているように思えてならないのである。なぜ利用(需要)側の立場、
将来の環境、維持管理コストがかからないように最初から考えないのであろうか?
また、運営のやり方を徹底的に検討しないのであろうか?
国益があってこそ、個の利益でしょう。
国益を食う公・人はいるけど、国益を護る公・人はいないのでしょうか・・・
昨年の構造問題、建基法、制限された空間、コストダウン建築は将来を考えない

一時的な一部の供給者短期利益追求型ビジネスの典型であろう。
今から将来、快適に暮らせるようにと考えたライフサイクルコストダウン型スペース居住空間

を創造する需要者の為の長期利益追求型ビジネスを展開できるように考えるべきである。
今までの1ファミリー3人スペースは、極端にいえば少子化の影響へも繋がっているのではない

だろうか?
また、今からの3世代同居快適空間を真剣に取り組めば、供給者短期利益追求型ビジネス

より、需要者長期利益追求型ビジネスへのシフトを考えることの方が大事である。
住宅金融機関等は、住宅件数を伸ばすためではなく、人に優しい環境の良い広く永く住める

住宅を再生するために投資シフトを変えるべきであろう。
今を生きる我々世代がいろんな事を考え将来の環境をつくるべきです。
これらのことを語り合うことに将来のことが現実に繋がっていることに確信するはずです。